室町文化サロン

 酬恩庵には、一休に禅の説法を請う多くの文化人が訪れました。その一人に、茶道の祖といわれる村田珠光がいます。
珠光は十一歳で出家しましたが、寺の平凡な生活を嫌い、二十歳のときに出奔しています。
放浪していた三十歳頃に一休に出会い、その教えを受けたのでした。
一休は珠光に、大応国師が中国から伝えたといわれる禅寺の茶の湯の作法を教えました。
珠光は、それに日本的趣向を取り入れるとともに、一休から学んだ禅の精神を融合させ、不必要な物を削ぎ落として、
洗練された精神性の高い「侘び茶」を創始したのでした。
これがのちに、武野紹鷗を経て千利休にうけつがれ、「茶道」として大成したことはいうまでもありません。

 一休と珠光の出会いが茶道を生んだとすれば、一休が日本文化に残した足跡の大きさに、いまさらながら、
驚かずにはいられません。
珠光は法名を「休心」といいましたがこれは、一休の一字をもらったものと思われます。


平成文化サロン 一休寺薪能:一休酬恩会主催

 また、一休は、能楽にも深い関わりを持っています。
観阿弥・世阿弥がつくりあげた能楽の思想と芸風をうけつぎ、さらに発展させた金春中興の祖とされる金春禅竹も、
一休に教えを受けた芸術家の一人です。
禅竹は、謡や舞の技術を錬成する一方で、一休を禅の師と仰いで修行を積みました。
能楽の中に「さび」の心を求め、仏教的・哲学的な独自の芸風をつくりあげていったのです。
一休寺の門前には、一休の観覧に供して、禅竹が自作の能を演じたといわれる「今春の芝」跡が残っています。
また、寺の近くには、「金春屋敷」跡と伝えられる所もあって、禅竹が一休を深く尊敬し親しく指導を授かったことを偲ばせます。
謡曲「江口」や「山姥」は、一休の作品に禅竹が節づけしたものといわれています。

 また、観世流三代の音阿弥の墓も一休寺境内の墓地にあります。
ここに墓のあるところから察しても、禅竹同様、
能楽に理解の深い一休に参禅して、教えを受けていたのではないかと思われます。

 そのほかにも、一休に禅の教えを受けた芸術家は多岐にわたっています。
連歌の柴屋軒宗長、俳諧の山崎宗鑑、画の曾我蛇足など、
それぞれの芸風の中に禅を融合させた作品を残しています。