一休さんの足跡

西暦(年号) 年齢 足跡
1394年(応永元年) 一歳 正月一日、京洛の民家に生まれる。幼名千菊丸。
1399年(応永6年) 六歳 京都案国寺像外鑑公の侍童となる。周健とよばれる。
1410年(応永17年) 一七歳 清叟仁蔵主に仏典を学ぶ。西金寺謙翁宗為の弟子となり、法名を宗純とする。
1411年(応永18年) 一八歳 将軍義持に謁見する。
1414年(応永21年) 二一歳 一二月、謙翁入寂。入水をはかるが、救われる。
1418年(応永25年) 二五歳 「祗王竉を失い尼となる」の琵琶をきいて「洞山三頓の棒をゆるす」公案を会得、 「一休」の道号を与えられる。
1420年(応永27年) 二七歳 五月二〇日、闇夜に鴉の鳴く声を聞いて、大悟する。華叟印可を授けるが、これを拒否する。
1428年(正長元年) 三五歳 華叟入寂。京都に帰り、風狂の生活を送る、近畿一円を放浪巡錫。
1429年(永享元年) 三六歳 妙勝寺仏殿再興を決意する。
1437年(永享8年) 四四歳 源宰相の館に寓した折、華叟の印可を渡されるが、これを火中に投ずる。
1448年(文案5年) 五五歳 陶山公の旧隠を売扇庵と名付け、ここに寓する。
1456年(康正2年) 六三歳 薪村妙勝寺修復を成し遂げ、大応国師の木像を安置し、酬恩庵に安置する。
1459年(長禄3年) 六六歳 徳禅寺に晋山する。虚堂和尚の唐本画像を酬恩庵に安置する。
1467年(応仁元年) 七四歳 六月、京都で応仁の乱起こり、東山虎丘庵に難を避け、九月には酬恩庵に移る。
1474年(文明6年) 八一歳 勅命により、第四七世大徳寺住持となり、戦火に消亡した大徳寺の復興を手掛ける。
1475年(文明7年) 八二歳 酬恩庵内の虎丘に寿塔を造り、慈楊塔と名付け、その文字を軒に掲げる。
1478年(文明10年) 八五歳 諸所巡歴の後、薪村に戻る。
1480年(文明12年) 八七歳 弟子、墨済に命じて自らの木像を彫らせ、髭髪を抜いてこれに植えさせた。
1481年(文明13年) 八八歳 一一月二一日、酬恩庵にて逝く。